曽野綾子著「晩年の美学を求めて」から
曽野綾子さんについては以前にも書いていますが、ちょっと気持ちが落ち込んでいる時などにエッセイをよく読んでいます。
「晩年の美学を求めて」(朝日新聞社・2006年発行)はまだ読みかけですが、印象的な内容がありましたので・・・。
名前も忘れてしまったような人たちから多くの人生の断片を聞かされてきて、そのコレクションを「財産」「貯金」と感じているという話です。
書かれている話は2つ・・・
ひとつは、戦後まもなくアメリカに渡った青年の話。
恵まれた環境にあり明るい未来が待っていたはずの青年は、大陸横断の列車に乗っていて、中西部の広大な平野のひなびた駅でちょうど夕陽が落ちる瞬間に列車を降りてしまいます。
そして、青年はそのまま姿を消してしまいました。
夕陽を見るのが好きだと言う曽野さんは、
“青年はその夕陽を見た時、人生を観たのだろうか。彼が何を思ったのか、誰も正確に推測することはできない。ただはっきりしているのは、彼がその駅で列車を降りてしまったことだ。それは人生を降りることでもあった。”
と書いています。
もうひとつは、イタリア・ナポリのカプリ島でのこと。
曽野さんが豪雨の中で知り合った、イギリスの諜報機関にいたことがあるという老紳士が語った話です。
彼は任務の途中のオアシスで、服装は遊牧民でもイギリス人とわかる人物を見かけます。
声をかけようとしたものの、その指を見て止めます。
白人の手とは思えないほど荒れて分厚い指の皮膚をしていたからです。
後日、それがアラビアのローレンスとわかります。
本の中にも書いていますが、映画「アラビアのロレンス」(1962年)でロレンスがマッチの火を指で消すシーンがあります。
そして、一転して広大な砂漠が映り、壮大な映画が始まります。
曽野さんはたまたま豪雨の中で手に怪我をしていたために、老紳士は昔のことを思い出して話をしてくれたようです。
最後に、
“何を誇るかはその人の自由だが、多くの人生に立ち会わせてもらったことを今でも私は財産だと感じている。そしてそう思うと、私は死ぬ時に決して不満を抱かず、金持ち気分で死ねそうな気がするのである。”
と結んでいます。
私は昔、よく “シャルル・アズナヴールや越路吹雪さんのステージを観たことが私の財産” とか、半分冗談で言っていた時期があります。
それでも、とても金持ち気分で死ねそうには思えません。
まだまだ修業が足り無いということでしょうが・・・。
というか、それより何より曽野さんと比べること自体に問題がありましたね。
映画「アラビアのロレンス」は、“映画に不可能は無い!”と感じた作品なので、いずれ感想などを書いてみたいと思っています。
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