「ラジオ深夜便」出会いさまざま、松島トモ子さん
「ラジオ深夜便」1月11、12日・午前4時台〔明日へのことば〕
出会いさまざま~芸能生活60年(1)、(2)
女優 松島トモ子
2日分をまとめたので、長文になります。
松島トモ子さんは、ある年代以前の人にとっては大変なアイドルでした。
芸能生活60年という松島さんが、お母さんと一緒に出演しています。
お母さんは89歳、しなえさんと言う名前を微かに覚えている、私もそんな世代です。
1日目は、生い立ちから、映画の世界で観た大スターの話。
2日目は、海外留学に、ライオンとヒョウに襲われた事故、そして、シベリアに眠る父親の墓参の話、でした。
松島さんは、終戦の1ヶ月前に満州の奉天(現在・瀋陽)で生まれています。
父親はシベリアに抑留されていて、母子が日本に引き上げた後にその死を知らされます。
母親は乳飲み子の松島さんを抱えて、苦労をして日本に帰ってきます。
当時急に裕福になった中国人に、子供を譲ってくれと言われた話が何とも生々しく伝わってきました。
父親の戦友が、父が眠る場所の絵図を届けてくれますが、実際に墓参が出来るのは45年後となります。
虚弱体質で、足が曲がっている松島さんは踊ることが好きで、3歳で石井漠先生の元でバレエを習います。
「小さなバレリーナ」としてニュース映像で取り上げられ、それを観ていた坂東妻三郎さんと松田定次監督にスカウトをされて、芸能界デビューをします。
その時、4歳。大きなカメラの目が迫ってきて具合が悪くなり、たびたびNGを出したそうです。
後で、暖房用の石炭での一酸化炭素中毒だったとわかったと笑っていますが・・・。
以下、共演した大スターを子供の目で見た印象が語られています。
長谷川一夫さん・・・「振袖狂女」で共演。
茶室に呼ばれてお茶をたててくれた。
きょうはこんな思いで(演じなさい)、とか、衣装からメイク、頭まで、全部手を入れてくれた。
それが見事に変わって、可愛くなっていた。
三益愛子さん・・・「母子船」などで共演。
同じ子役として成功する白鳥みずえさんを手塩にかけて育てていた。
白鳥さんが忙しくなり、松島さんは代役となった。
バレエの歩き方が役に合っていないと、歩き方から厳しく教えられた。
毎日の特訓で、母親のところに帰してくれないこともあって、泣いたこともあった。
嵐寛寿郎(アラカン)さん・・・「鞍馬天狗」の36代目杉作役(初めて女の子が演じた)で共演。
無愛想で、女性好きのアラカンさん。
早く撮影を終えて先斗町へ行きたいアラカンさんは、自分のアップだけを撮影し、松島さんは後で目線を合わせて別撮りをした。
あまり想い出が無いアラカンさんだけど、何より立ち回りが美しい・・・
着流しで裾が乱れず、舞を舞うような立ち回りをしていた。
美空ひばりさん・・・「丹下左膳」で共演。
ひばりさんの母親が、風邪をうつさないようにと常にマスクをしていた。
二人で歌うシーンは、その母親がO.Kや駄目出しをして、松島さんの意見は聞き入れてくれなかった。
松島さんの母親も付き添っていたが、恥ずかしがり屋で何も言えなかった。
その松島さんのお母さん、坂東妻三郎(坂妻)さんが衣装で迎えに来たのに、娘は昼寝をしているので待ってくださいと言ったとか。
当時は、労働基準法も厳しくは無く、子供でも夜中まで働いていて、とにかくかわいそうなくらい忙しかったようです。
その他にも、片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さん、大友柳太朗さんなど、大スターと共演をしていますが、子供の目線ではなく、大人になってからだったらどんなに良かったか、と語っています。
ひばりさんとのシーンはこちら↓のようです。
今、こうして映像がアップされていて、観られることが凄いですね。
懐かしい大友柳太朗さんや大川橋蔵さんの姿も見られます。
2日目のインタビュー・・・
高校卒業前(東京オリンピックの年)にアメリカに留学します。
幼い頃からただただ忙しく過ごしていて、“爆走している列車から降りないと”と・・・。
初めてお金を使う経験をしたり、まだまだ日本人への理解が無かった時代のことが語られてます。
日本人はお風呂の入り方も知らないと思われていて、普通に入ったら褒められたとか。
松島さん自身も、雨が降ると傘をさすという行為を初めて知ったようです。
スターであったときは、誰かが必ずさしかけてくれたから、と・・・。
24年前、アフリカでライオンやヒョウに咬まれた話は大変なニュースでしたね。
ドキュメンタリー番組の取材での事故でしたが、あの「野生のエルザ」の主人公ジョージ・アダムスンのところでとは知りませんでした。
ヒョウに襲われて(2回目)、首に体当たりされてガリガリ骨がくだける音がした、とか、血が流れる感覚とか、その詳しい説明にまるでラジオドラマを聴いているような気になりました。
2回ともに、事故後夜明けのフライングドクター(飛行機)を待って病院に運ばれ3日入院というパターンだったんですね。
もちろん医者側から止められるほど重症だったわけですが、何としても残りの仕事を済ませたいというそのプロ根性には驚くばかりです。
1990年、45年ぶりに父親が眠るシベリアに母子でお参りに・・・
入ることが許されない土地で、ペレストロイカのおかげで実現できたようです。
戦友の絵図のとおり、コスモスの咲く丘で、卒塔婆と薔薇の花、そして80本のろうそくを手向けたそうです。
80本は、その地には80人が埋葬されているから・・・。
その時、松島さんはお母さんがコートの下に喪服を着ていたのを初めて知ったようです。
ゴルパチョフさんが失脚してから会う機会があり、お礼を言ったとのことです。
ゴルパチョフ夫人のライサさん、一番嬉しいことは?との質問に「失脚したとき。殺されるかもしれないときに、夫が平静でいたこと」と答えたそうです。
ゴルパチョフさんへのインタビューに、日本のスタッフは正装なのに、現地のスタッフは普段着で、市民も彼を無視したままだったという話が印象的でした。
松島さん、インタビュアーとしても活躍していたんですね。
「60歳を越えて、責任の持てる仕事が出来るような気がする」
そう謙虚に語っていました。
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